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校長講話等

「知識より意識」

「知識より意識」

 

 防災訓練の目的とは何でしょう。避難経路や災害時にとるべき行動を想定し確認することや、防災計画の問題点を検証し減災に繋げること等が思い浮かびます。しかし、私たち一人ひとりが防災訓練を通して培うべきことを一言でまとめるなら、災害に対する「意識」なのです。

 皆さんは、東日本大震災の当日どうしていましたか。平成23年3月11日、私の勤務していた埼玉県南部の高校では、卒業式が終了し、午後、部活動中であった約80名の在校生が帰宅の足を奪われました。しかも、交通機関は不通となり、一旦帰路についていた生徒が次々と学校に戻り始め、80人という数は徐々に増えていきました。視聴覚室に集合させ、10名単位で家庭科室で食事を摂らせながら、保護者との連携を模索する十数時間。深夜12時の段階で、生徒の数が30名となり、最後の生徒が帰宅できたのは、翌日の朝5時でした。対応のため、20名の教職員がそのまま学校で夜を明かし、私も帰路についたのは翌日の夕方でした。

 残念ながら、過去の体験は時間の経過とともに風化していきます。私たちは訓練を積み重ねることで防災に対する意識を持続、高揚させていくことができるのであり、「知識」よりも「意識」を高めることが防災訓練の一つの大きな目的です。「もしもの時にどう動かなければならないか。そして、もしもの時は必ず訪れる」という意識を持ち続けることが大切なのです。首都圏を襲う大地震は、人生の予定表に書き込んでおかなければならないとも言われています。

 「マニュアルはつくって、使うな」という言葉があります。これは、一つには想定と異なることが起こり得るということを言っています。自然災害は、想定を超える規模で襲ってくる危険性を常に孕んでおり、学んだ「知識」では対応できなくなる場合もあります。その場合に安全を最優先し、迅速かつ適切な判断を行うためには、「主体的に行動する態度」が必要となります。もちろん、「知識」は安全の柱です。しかし、「意識」により常に「知識」を問い直していくことが必要です。行政による「公助」、身近な地域コミュニティ等による「共助」、そして「自助」は私たち一人ひとりの自覚に根ざしています。「意識」こそ「自助」の第一歩なのです。

 

                 平成29年度避難訓練講話(一部改)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「帰ってくるのを待っている仲間がいる」

「帰ってくるのを待っている仲間がいる」

 

 ゴールした最終走者に仲間が歓声をあげながら駆け寄る。昨年度の駅伝大会はとても感動的でした。

 駅伝は、襷を引き継ぎながらチームの一員としてリレー形式で競います。個人種目とは異なり、チームへの責任感や仲間との連帯感を感じるはずです。昨年度経験した人は、支え助け合い、一緒に頑張る感覚や、耳に届いた応援の声、あるいは応援せずにはいられい気持を覚えているかもしれません。走り終わった後の成就感や達成感も、自分だけでなくチーム全体で享受することができます。そこに個人種目ではなかなか味わえない駅伝の魅力があると言えます。

 ある駅伝走者がとても印象的なことを言っています。「走り終わって帰ってくるのを待っている仲間がいる。それがマラソンにない駅伝の魅力だ。」

 皆さん、襷を繋ぐ瞬間を思い浮かべてください。クラスの仲間があなたが帰ってくるのを待っています。声が届いているでしょう。速い遅いは関係ありません。どんな結果でも、今日はきっといい日になります。

 

                        駅伝大会校長挨拶より(一部改)

 


「文化祭的空気」

                      「文化祭的空気」


  皆さん、文化祭と言うとどんな言葉を思い浮かべますか。仲間、絆、夢、熱気、汗、涙、などでしょうか。文化祭が持つ独特な空気を表す言葉は他にもたくさんあるでしょう。この空気は、もちろん一人ではつくることができません。生徒の皆さん、保護者の方々、教職員、来校してくださる方々、すべての人達で築きあげるものです。そして、この空気の中でしか味わうことや培うことができないものもあるのです。

学校は、基本的には学力をつける場所です。しかし、それだけではなく、いろいろな「仕掛け」があります。周りの人と協力して何かを達成する。その成就感を味わうなかで、協調性を育み、想い出をつくる。その一番大きな仕掛けが文化祭です。

さあ、いよいよ第49回「勾玉祭」が始まります。皆さん、文化祭的空気をしっかりと吸って、思い切りこの仕掛けにのりましょう。

                    第49回勾玉祭 校長挨拶より







 



「いのち」と「こころ」 ~日野原重明 先生のことば~

「いのち」と「こころ」

~日野原重明 先生のことば~


 皆さんも、テレビやネット、新聞のニュース等で大きく伝えられたので耳にしたかもしれません。聖路加国際病院名誉医院長、聖路加国際大学名誉理事長、というより内科医 日野原重明 先生がこの7月18日に105歳でお亡くなりになりました。

 日野原先生の人生は、「人のため」に挑戦し続けた人生だと評されています。1941年から東京にある聖路加国際病院に勤務し、早くから予防医学に取り組まれた人です。日本で初めて「人間ドック」を開設し、成人病に代わる呼称として、「習慣病」を提案し、後に「生活習慣病」に名称が変わる契機を作りました。

 1995年、地下鉄サリン事件に遭遇した時、院長であった日野原先生は、直ちに聖路加国際病院の当日の全ての外来受診を休診にしました。ラウンジ、廊下、礼拝堂など全ての施設を緊急応急処置場として機能させ、無制限に被害者を受け入れるためです。自ら陣頭指揮をとり、運び込まれた640人の患者全てに早い段階での適切な処置を施し、犠牲者を最少限に抑えたと言われています。先生が80歳の時のことです。この時の顛末はNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX ~挑戦者たち~』などでも取り上げられています。

 100歳を超えても回診をし、後進の育成に尽力するとともに、小学生に対して「いのちの授業」を続け、「いのちとは一日一日の中にあり、一人ひとりが持つ大切な「時間」、その時間をみんなのいのちとして、大切にしてほしい」と語りかけてきたことはよく知られています。

 そして、人が生きていくうえで、もう一つ大事なこととして「こころ」をあげています。ほんの一部ですが、今日は、「いのち」と「こころ」に係わる先生のメーセージを紹介します。

 先生は、「こころを育てるということはお互いに手を差しのべあって、一緒に生きていくこと、自分以外のことのために、自分の時間を使おうとすること」だと言っています。溢れる情報やマニュアルに従っていれば日常生活は難なく乗り切れる、自分はそうして一人で生きてきた、生きていけるという大きな錯覚。他人を自分以外の「異物」と捉え、気に入らなければ、「邪魔になる」、「不愉快だ」だと簡単に攻撃し、最悪の場合、殺めてしまう自己中心的な未熟さ。自分の気持ちと「居心地」だけを優先し、人間と人間のふれあいを煩わしいものと考えるこういった風潮に警鐘を鳴らしています。

 先生は、「人との関わり合いの中で共通の思いを探ることにより、自分以外の『他者』に心を寄せる感性が育ち、他人の喜びや痛みに共感できる心の幅が広がる」とも言っています。ものが豊かになっても、人間の生に伴う普遍的な困難さは変わるはずもありません。先生の言葉が、そして言葉だけでなく先生の生き方そのものが教えてくれるのは、一個の人間は弱い存在であるからこそ、助け合い、肩を寄せ合って生きることが必要であり、数々の衝突、摩擦、あるいは心を癒やされる経験を重ねながら人間関係を学んでいくことの重要性です。

 「きみたちは昨日から今日までの1日で、自分の時間を他の人のために、どれくらい使いましたか?君たちの時間を、きみたちは自分のためだけに、使っていませんか?」先生の問いかけです。皆さんも、考えてください。

 日野原先生は、何よりも人間を大切にした人です。医療の対象も「病(やまい)」ではなく、「人」であると考えました。90歳の時に刊行したエッセイ集『生き方上手』はベストセラーになっています。本校の図書館にもありますので、是非一度読んでみてください。

 先生は、このエッセイ集の中でも、また他でもたくさんの珠玉の言葉を残しています。最後にもう一つ、今日の話に関係する言葉を紹介し、講話を終わりにします。

「人はみな自分の中に個性や才能といった宝をもっている。その宝を他の人と共有しなければいけない。」

              平成29年度前期終業式 校長講話より(一部改)

「誰かに知ってもらう」

「誰かに知ってもらう」

 

 今日から授業が再開し、久しぶりに全体で顔を合わせることができました。報告を含めて、初めに少し夏休みを振り返ってみます。

 部活動では今年も、陸上部、テニス部、柔道部、剣道部が全国大会に出場し活躍してくれました。特に、陸上部の田村君は男子400メートルリレーの埼玉県チームの一員として全国優勝を果たしました。大会新記録だったそうです。本校では、平成18年に、遠藤選手が女子走り幅跳びで優勝して以来の快挙となります。おめでとうございます。

 もちろん、先程、各部から報告されたように、田村君だけでなく、出場した皆さんがすばらしい活躍をしてくれました。出場した人にとっても、応援した人にとっても、この夏の経験は大きな財産となるでしょう。後の人生に生きる大きな「成果」となるはずです。

 校内で生徒会活動や部活動、進路や補習に汗を流していた皆さんももちろん同じです。また、学校から離れて頑張った人もいるはずです。頑張りが「成果」となるのはこれからです。

 

 逆に、思うような夏休みを送れなかった人もいるでしょう。何かを探して自問自答していたり、悩みを抱えて足踏みをしていた人もいるでしょう。

 人の心は難しいものです。残念ながら、私達の心は常に前向きではいられません。苦しい気持ちから抜け出せないときもあります。心が弱いわけでもなく、怠けているわけでもありません。人間なら、誰でも起こります。それは、生きている証拠でもあります。

 そんな時、どうしたら良いか。スポーツで汗を流す。ゆっくり休養を取る。音楽を聴く。人により対処方法は異なるでしょう。一つ、とても有効な方法は、一人で溜め込まずに他の人に聞いてもらうことです。他人に話したところでどうにもならないと思うかもしれません。でも、言葉にして他人に伝えることで心の荷物は軽くなります。「知ってもらう」ということ自体が大きな力となるのです。

 逆の立場から考えれば、私達は、なかなか他人の力になることはできません。でも、他の人の痛みや辛さを「知ってあげる」こと自体に大きな意味があるのです。

 一人ひとりの人間は決して強くありません。いろいろな人の支えがあって強くなるのです。「誰かに知ってもらう」ことにより、自分の心の中で重荷を昇華することができます。再び頑張ることもできるのです。身近な人に話しづらい場合、色々な相談機関を利用することもできます。

 自分を大切に、相手を大切に、一人一人を大切にしましょう。あなたの悩みや辛さや頑張りを、遠慮せずに素直に伝えましょう。心の痛みを相談できる人は、実はたくさんいるのです。

 

                  平成29年9月 全校集会講話より(一部改)

「人の思いの中で生きている」

「人の思いの中で生きている」

 

 7月7日少し前から、図書館に笹竹が飾られていました。皆さんもよく知っているように、七夕では願いごとを短冊に書いて笹竹に飾り、織姫星に祈ります。図書館の笹竹にも皆さんの短冊がたくさん吊るされていたようです。 


 作家の重松清さんは、この七夕の願いごとに、自分以外の人の幸せを祈ることを「おとなの条件」に挙げています。確かに、家族やお世話になった人の幸せそうな顔を見ることは、年齢を重ねるにつれ、自分の幸福の大きな要素になっていきます。短冊に、子どもの成長や、両親の健康への願いを込めることは、ある意味では「おとなの条件」かもしれません。

 でも実は、七夕でなくても、また祈りまではいかなくても、私達の周りには人に対する思いが溢れていて、それは必ずしもおとなだけのものではありません。大げさに言うならば、人間は、自分の周囲にいる、いろいろな人の思いに支えられて生きているのです。

 親が子どもを慈しむ。教師が生徒に期待する。恋人がお互いを大切に思う。友人同士が励まし合う。言葉にしなくても、共感したり、心配したり、尊敬したり、優しい気持ちを持ったり。

 身近な人だけではありません。私達は、直接会ったことのない人を応援したり、頑張りを自分のことのように喜んだり、感動したり、また不幸に心を痛めたりもします。

 そういった思いがあるからこそ、人間は存在し、希望を持ち、頑張ることができ、また過ちも許され、やり直すことができるのです。もし、万一、あなたが間違ったとしても、あなたの未来に期待する人達がいるからこそ、再び機会を与えられるのです。

 自分の周りには、たくさんの人の思いがある。今、ここに在るのも、いろいろな人の思いのおかげである。それを感じて生きることは、私達の義務かもしれません。

 

 

              平成29年度 7月全校集会 校長講話より(抜粋)


「四里の道は長かった」

「四里の道は長かった」

 「四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。」


 「総合的な学習の時間」を利用して、生徒と一緒に地元の名所・旧跡を訪問しました。
  最初の訪問地である建福寺は、『田舎教師』のモデル小林秀三が下宿し、死後埋葬された寺です。彼の日記をもとに、田山花袋が書き上げた小説は、実在する人々を登場人物として、明治の羽生の自然や風物が活き活きと描かれています。健幅寺は成願寺として登場します。


   
 
  その後
駅前の『小便小僧』(ベルギーの姉妹都市デュルビュイ市から寄贈されたもの)から毘沙門山古墳を経て、清水卯三郎の眠る正光寺に到るのが今回の計画でした。時間の関係で全てを巡ることはできませんでしたが、生徒だけでなく私達にとっても大変意義のある校外学習となりました。

 学校がある地域を自分の足で回り、歴史や文化、人々の営みを肌で感じることは大切なことです。公立学校は、地域の歴史や文化と密接に結びついており、地域とともに育ってきました。地域を持っていることが公立学校の強みなのです。


「失敗を許し、成功を喜ぶ」 ~ボールゲームは人生に似て~

「失敗を許し、成功を喜ぶ」

~ボールゲームは人生に似て~

 

 本校では、修学旅行期間を利用して球技大会が開催されます。今年、体育館で行われた種目は、男女ともバスケットボールでした。

 スリーポイントシュートが決まって喜ぶ男子。「もうダメ」と言いながらも全力で走る女子。床を弾くドリブルの音、床を擦るシューズの音。無理なパスを出してしまい味方に謝るすまなそうな顔。「校長先生、うちのチームは2連勝です」と報告してくれる笑顔。観ていると、こちらの気持ちも跳ねるように高揚します。目的を共有し、同じ時間を生きている感覚が伝わってきます。

 生徒の頑張る姿に、自分の高校時代が去来します。パスをもらえてちょっと嬉しかった気持ち。ボールを持ったまま相手に囲まれてしまい、味方を必死に探したこと。ロングシュートが網をくぐった時の誇らしさ。

 バスケットボールは人生に似ていますね。パスが来た。どうするか。パスを出すか、ドリブルに切り替えるのか、それともシュートをするのか。自分自身の動きやチームメイトの意図、いろいろな思いや過程を経て、今、自分の手元にボールがある。もらったパスを一人で抱えたままにしておくことはできません。みんなの力を一つにするために、手元にあるボールは必ず繋げていかなければなりません。

  もう一つ思い浮かんだことがあります。「失敗を許し、成功を喜ぶ」ということです。これは、バスケットボールだけでなく、サッカーでも、バレーボールでも、団体で競い合うスポーツで共通に感じることです。味方の失敗を責めず、成功した時には、全員が喜びを分かち合う。そうして個の力が絡み合って全体の力となり、全体の力が個を活かすのです。

 団体球技から学ぶことはたくさんありますね。



「自ら学ぶ楽しさ」「ともに学ぶ喜び」

       「自ら学ぶ楽しさ」   

      「ともに学ぶ喜び」

 

 本校は、生涯学習機関として地域に貢献するとともに、開かれた学校づくりの一環として、一般の方を対象に特別講座を開設しています。今年も「実用の書」、「ワード入門」、「生活の中の科学」の三講座が始まりました。

 開講式では、昨年度、修了書をお渡しした方のお顔を多数拝見できました。誘い合って今年も受講してくださったようです。

 再度の受講理由をお尋ねすると、「とても楽しかったから」という答えが返ってきました。そしてお互いに顔を見合わせた時の笑顔の素晴らしいこと。特別講座を通して新しい友人もできたとのことでした。

 学ぶことは、本来大変楽しいものですし、学びたいという欲求は、何にも代えがたいものでしょう。また、学校は、一緒に学びあう喜びを味わうことのできる場所でもあります。「自ら学ぶ楽しさ」や「ともに学ぶ喜び」は、一度学舎を離れたからこそ、より実感できるのかもしれません。

 勉強することは、学生だけの特権ではありません。年齢や経歴に関係なく、私達すべてが生涯を通して享受すべきものです。保護者の方も是非、本校の特別講座に御参加ください。

 

「100年ロマン」

「100年ロマン」

 昨年、東京大学の 梶田隆章 博士による「ニュートリノの質量の発見と神岡の基礎科学研究」と題する講演をお聞きする機会に恵まれました。博士は、ご存じの通り、ニュートリノ振動の発見により、2015年にノーベル物理学賞を受賞されています。

 博士の話は、学生時代の想い出に始まり、研究者として携わった「カミオカンデ実験」へと続きます。ニュートリノは素粒子の仲間で、大きさ、質量とも想像できないほど小さな存在で、地球を簡単に突き抜けてしまうこと。岐阜県神岡町からその名を取った「カミオカンデ」で行った陽子崩壊実験が偶然にニュートリノ振動の発見に繋がったこと。実験は「スーパーカミオカンデ」に引き継がれ、1998年にニュートリノ振動の観測結果を発表したことなど、研究者としての喜びが聞く側に直接響いてきました。さらに、話は、「アインシュタイン最後の宿題」へと拡がります。アインシュタインが100年前にその存在を予言し、後世に検証が託された重力波が昨年ついに観測され、一般相対性理論の正しさがあらためて確認されると同時に「重力波天文学」が夜明けを迎えたこと。ニュートリノと重力波により人類は宇宙創世の謎を解く鍵を手に入れたこと。物理学の素人にも分かりやすく興味がつきない話で、とても楽しそうな、時々夢見がちな博士の表情が印象的でした。

 前置きが長くなりました。博士の後半の話ではありませんが、実は、私自身も、世界を駆け巡った重力波観測に関するニュースに胸を躍らせた1人です。その時の感想も含め話を続けますが、退屈な部分は読み飛ばしてください。

 重力波とは、時空の歪みを伝える波です。質量を持った物体が存在すると、それだけで時空に歪みが生じ、重ければ重いほど、その歪みは大きくなります。さらにその物体が運動することで、空間の歪みがさざ波となり伝わっていきますが、そのさざ波自体のことです。

 重力波の振幅は人工的に作り出して観測することが不可能なほど小さく、波源は天体現象にのみ期待されています。昨年、世界で初めて観測された重力波は、地球から約13億光年彼方の場所で、2つのブラックホールが衝突したときに生まれたもので、2人の人間が1メートル離れて座っているところを通過すると、2人の距離が、10の21乗分の1メートル変化します。小さすぎてピンときませんね。

 ニュートリノや重力波といった想像もできないほど小さな世界が、途方もなく大きな宇宙の謎に繋がっている。どうやら、大きな世界の創造は小さな世界の探索から始まるようです。一見関係ないことが実は、深いところで結びついている。これは、科学の世界だけではなく、何かいろいろなことに共通していませんか。ずっと彼方にある大きな夢を叶えるためには、手元にある小さな目標を達成していくことが必要なように。

 もう一つ、「信じる力」の凄さを感じませんか。アインシュタインの予言を信じ、100年におよぶ壮大な探しものは続けられました。一般相対性理論の発表は1916年。まさに宇宙をめぐる100年ロマンです。

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニとカムパネルラの旅は、不思議な時空異動を経験しながら、南十字星に向かいます。途中、2人がアルビレオ観測所の近くで、検札を受ける場面があります。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。
               (中略)
すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように云いました。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」

 

 ジョバンニが眠りから覚めると、一晩かけた天の川銀河の旅も、地上では僅か45分間のことでした。相対性理論に基づけば、物体の速度や、重力の影響を受けた空間の歪みにより、時間の進み方も変わります。宮沢賢治もまた、遙かな宇宙に想いを寄せ、ロマンを見いだした人でした。『銀河鉄道の夜』も100年ロマンと繋がっているのですね。

               
                         (羽高だより 第114号より)

「人生のドア(2)」 平成29年度前期始業式講話

「人生のドア(2)」

平成29年度前期始業式講話

 

 今、新しい先生方を紹介しました。午後には、皆さんの後輩が入学し、いよいよ平成29年度が始まります。今日の入学式では、「人生のドア」の話をする予定です。

 これは、あるドイツの高校生が一つの失敗を人生の失敗と感じ、臆病に首をすくめ現実から逃げ出したいと考えていたときに、英語教師の言葉に、前を向いて不安に立ち向かう勇気をもらった話です。

 その言葉とは、「人生にはドアが沢山あります。ドアの後ろには何があるか分からない。それが怖いと思うかもしれませんが、好奇心を持って、好きなドアを開けてみてください。素敵なことが後ろにあるかもしれません。ドアの後ろに嫌なことがあったら、一歩下がって、そのドアをまた閉めてもいいんですよ。」というものでした。

 当時17歳であった彼女は、この言葉に背中を押され、古いドアを閉めて、新しいドア、日本への留学に踏み出します。「幸せを探す勇気をもてた」という彼女の言葉が印象的です。

 さて、新入生の話とは、ここからが違います。皆さんには一歩踏み込んでお話しします。

 彼女は「探す勇気」と言っています。「ドアを開ける勇気」と置き換えることもできます。ここはとても大切なところです。なぜなら、確かに、人生にはドアはたくさんあります。でも、自動ドアはないからです。ドアは自分で開けなければいけません。

 指揮者の佐渡 裕さんは、小学校の文集に書いたベルリンフィルの指揮をするという夢を実現したとき、「夢への扉は勝手に開くものではないし、先生や親が助けてくれるものでもない。自分で開けないといけないのです」という言葉を残しています。そして、それは目の前の小さなことから逃げないところから始まると続けています。

 夢や希望を叶え、未来を拓く魔法はありません。彼の言葉のとおり、学校生活でも、仕事でも、人間関係でも、目の前にあることに、正面から向き合うことがドアを開ける力になります。いつまでも古いドアを見つめ、新しいドアに背を向けていてはいけません。小さくても新しいドアに手を伸ばし、そのドアを自分で開ける。そのためには、目の前の日常に、常に真摯でなければなりません。自分で開けたドアだからやり直しができるんです。                                                                                                                                                (抜粋)


                             

「人生のドア」平成29年度入学式校長式辞


「人生のドア」
平成29年度入学式 校長式辞

 桜の花びらがひかりに揺れ、風が香りを運び、季節が新たな出発を祝うこの佳き日に、多数の御来賓の方々に御臨席いただき、平成29年度 埼玉県立羽生高等学校 入学式を挙行できますことは、この上ない喜びであり、心から感謝を申し上げます。



 ただいま呼名され、入学を許可された生徒の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんは本日から、羽生高校の生徒として、本校で学んでいくことになります。保護者の皆様、お子様の入学、本当におめでとうございます。心からお祝い申し上げます。

 本校は昭和23年に設立され、今年で70年目を迎える学校です。校訓は、「友愛 自立 飛翔」です。「友愛」とは、お互いに励まし支え合い、協力する心のことです。「自立」とは、自分自身の力で物事を切り開いていくことです。そして「飛翔」とは、空高く飛び駆けることです。

 「友愛」の中で優しさを育み、「自立」という滑走路を経て、自分の夢や希望に向かい「飛翔」する。この3つの言葉は本校の教育活動の道標であり、生徒の皆さんの充実した高校生活への願いが込められています。
 今、皆さんは、新しい生活に、期待と同時に不安を感じているかもしれません。出発に際し、あるドイツの高校生が人生の転機とした言葉を紹介します。

 「人生にはドアが沢山あります。ドアの後ろには何があるか分からない。それが怖いと思うかもしれませんが、好奇心を持って、好きなドアを開けてみてください。素敵なことが後ろにあるかもしれません。ドアの後ろに嫌なことがあったら、一歩下がって、そのドアをまた閉めてもいいんですよ。」

 彼女は、一つの失敗を人生の失敗だと感じ、臆病に首をすくめ現実から逃げ出したいと考えていました。そんな時、ある英語教師から聞いた「いろいろなドアを開けてみなさい。間違ったら閉めてもいいんですよ」という言葉は、逡巡を素直に受け止め、失敗を肯定的に捉え、前に進むきっかけとなったのです。不安に立ち向かう勇気をもらったのです。

 当時17歳であった彼女は、この言葉に背中を押され、古いドアを閉めて、新しいドア、日本への留学に踏み出します。「幸せを探す勇気をもてた」という彼女の言葉が印象的です。

 思ったとおりの人生が果たして楽しいでしょうか。人生には、様々な悩み、失敗や挫折はつきものです。悩みや、失敗、挫折という紆余曲折こそが皆さんの人間性を豊かにし、人生を人生たるものにします。精神科医で随筆家であった斎藤茂太(さいとうしげた)博士は「人生に失敗がないと人生を失敗する」という言葉を残しています。

 ドアの前で立ち止まってはいけません。不安は新しい可能性の始まり、自立への第一歩なのです。三寒四温の後に春が訪れるように、寒さや温かさを経験して、皆さんは羽生高校の門をくぐりました。すでに一つ新しいドアを開けています。自信を持って、勇気を持って、失敗を恐れずに未来を見つめてください。皆さんの人生はこれから、いろいろな可能性のあるドアが待っています。

 保護者の皆様、本日から、お子様をお預かりします。本校は「単位制」という、生徒一人一人の希望や生活のリズムに合わせることのできる柔軟な教育システムをとっています。授業によって、クラスメートも異なります。他の高校であれば、クラスで一緒に行動し、学校生活はレールに沿って進んでいくかもしれません。しかし、本校では、自由と責任の意味を理解し、自分で判断して、自己管理しなければなりません。卒業に至る道程(みちのり)は一人ひとり異なります。校訓の2番目に「自立」がある所以です。

 保護者の皆様には、本校の教育方針をご理解いただき、学校と密接な連携をとりながらお子様の成長と卒業に向けた支援をしていただきたいと存じます。

 終わりに、本日入学された皆さんが高校生活をとおして大きく成長し、卒業の春に、心地よい光と暖かい風を体いっぱいに感じてくれることを祈念し、式辞といたします。

平成29年4月10日
                      埼玉県立羽生高等学校長 田島 昭彦

                  



 

 

「結果と成果」平成28年度後期終業式講話


「結果と成果」

 

 過日、ロサンゼルスで行われた第4回ワールド・ベースボール・クラシックで、日本チームは準決勝で強敵アメリカと互角に渡りあいながらも惜敗しました。2大会振りの世界一返り咲きはなりませんでした。

 試合後、小久保監督は「勝てなかったのは事実。評価は周りがすることだと思う」というコメントを残しています。

 さて、皆さんは、今大会での日本チームをどう評価しますか。評価する、評価できない。様々な意見があることでしょう。

 小久保監督は、「失敗したら、もう指導者としてユニフォームを着られなくなる」という恐怖心から、就任要請を受けるか否か迷ったそうです。その危険を承知して引き受けたのは、サッカーのように子供たちが憧れる日本代表チームをつくり、野球界を発展させたいとの思いからだったと述懐しています。それまで代表チームは、大会が開かれる年の、しかもシーズンオフの時期にだけ招集されている単発チームでした。約3年半前、選手が毎年招集される常設の日本代表チームが生まれ、彼はその最初の監督でした。指導者としては初心者でしたが、シーズン中に、候補の選手全員と一対一で代表の意義と本人の意思を確認することで信頼関係を築き、チームとしての結束力を高めることに奔走します。

 今大会、決勝進出を逃したことを考えれば、結果を残せなかったと言えるかもしれません。しかし、常設チームという新しい試みにより大きな成果を残しています。それは選手の言葉にも表れていました。

 今年のワールド・ベースボール・クラシックに向けた日本代表チームの3年半の物語は、そのまま私達の日常にも通じます。

 満足のいく結果を残し目標を達成するときもあり、残念な結果に歯噛みするときもあるでしょう。部員数が揃わず、出場そのものを断念したチームがあるかもしれません。「勝つ」あるいは「負ける」という結果は確かに大きな要素です。しかし、結果にはそこに至る過程があり、最善を尽くす過程の後には、結果の如何にかかわらず、成果が生まれます。結果と成果は違います。

 私達は、往々にして結果のみを追い求めます。どうか、皆さん、まず過程を大切にして下さい。団体スポーツであればチーム作りに腐心し、受験であれば一人で勉強に取り組んだ過程は、例え結果が伴わなかったとしても、それ以上の成果となって皆さんのこれからを支える力となっていきます。結果は過去に残り、成果は未来に生きます。努力した過程で得られた成果は、今後の皆さんの人生の節目で必ずや生きるでしょう。

 

                   平成28年度後期終業式 校長講話より

「柔軟に生きる」第47回卒業式式辞


「柔軟に生きる」

第47回卒業式式辞

 

  羽生高校の69回目の冬が過ぎ、70回目の春が訪れようとしています。校舎に注ぐ陽の優しさと、校庭を駆け抜ける風の香りに春の息吹を感じるこの佳き日に、多数の御来賓並びに保護者の方々に御臨席いただき、埼玉県立羽生高等学校、第47回卒業証書授与式を挙行できますことは、この上ない喜びであり、心から御礼を申し上げます。

 ただ今、卒業証書を授与しました皆さん、卒業おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。

 皆さんは、期待と不安が交錯する中で、「友愛 自立 飛翔」という校訓に初めて迎えられた日のことを覚えていますか。以来、日々の授業、行事、そして部活動などをとおして、互いに励まし合い、支え合う「友愛」という優しさと、自らの意思でやり抜く「自立」という強さを身につけました。いよいよ「飛翔」の時がやって来ました。新たな出発に、期待と不安が再び交錯しているかもしれません。
    

 これからは「答え」のない時代に突入します。社会の変化はかつてないほどの速度であり、今日学んだ知識が明日通用するかどうかはわかりません。例えば、人工知能の発達は、これからの時代を生きる人間が行うべきことを根底から変えようとしています。首都圏を襲う大地震は、人生の予定表に書き込んでおかなければならないとも言われています。こうした不確かさの中で、時代を柔軟に生きることが求められています。

 柔軟に生きることを、私達はどう捉えたら良いのでしょう。3つの観点から話をします。

 まず、必要なことは、変化を恐れないということです。20年前、インターネットと携帯電話はほとんど普及していませんでした。10年前にはスマホという言葉はありませんでした。キャシー・デビットソン氏の「2011年にアメリカの小学校に入学した子どもの65%は、大学卒業時に今はない職業につくだろう」という予言は、世界を駆け巡りました。

 古い言葉があります。「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。」

生物学者ダーウインが『種の起源』の中で述べた言葉です。

 もちろん、これは生物学上の理を述べたものであり、人間社会にそのまま適用すべき言葉ではないかもしれません。しかし、変化は必ず訪れます。しかも、これからの100年の変化の速さは、今までの2万年に匹敵するとも言われています。

 必要なことの2つ目は、進んで他者から学ぶことです。自分の考えや意見を表明できることは大切です。しかし、常に他者の意見に耳を傾け、学ぶ姿勢を持たなければいけません。一人で辿り着ける、導き出せる「答」は、一人の経験や思考によるものでしかありません。私達の一生は、教えられ、学ぶことから始まります。そして、他者から学び続けることにより、私達は常に成長していくのです。

 偏見なく人を、物事を見つめましょう。自分より若い人からも、経験の浅い人からもたくさんのことが学べるはずです。「自分で考えること」と「他者から学ぶこと」は、皆さんの人生を支える両輪なのです。

 3つ目は、柔軟に生きようとすることで陥りやすい落とし穴についてお話します。

 「答え」のない時代においては、「答え」を出すよりも「問い」を見いだすことが重要だと言われます。確かに、「答え」でなく「問い」を見いだすことは主体的な生き方に通じます。単なる知識だけでなく、真に必要な知恵を身につける上で不可欠なことでしょう。

 「問い」立ての大切さを十分承知した上でお話しします。「問い」立てすることに縛られないでください。「問い」は言い換えれば「課題」とも言えます。学校のカリキュラムでも、これからは、自ら「課題」を見出す態度を育成することが重要だと言われています。ここでは、「欠点」という言葉に置き換えると、わかりやすいかもしれません。

 「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、「課題」の解決や「欠点」の克服ばかりに心を奪われていますと、大事なこと、何より「良さ」を見失います。マイナスの改善は確かに大切でしょう。しかし、プラス面を見つめることを忘れてはいけません。皆さんの大切な心を、「課題」を解決することだけに使ってはいけません。「課題」を解決すれば、「欠点」を克服すれば、魅力的な人間になれますか。豊かな生活を送れますか。それはわかりません。是非覚えておいてください。「良さ」を伸ばすことは「欠点」を克服する以上に大切な時があります。

 「変化を恐れない」ことや「他者から学ぶ」ことは、決して他に迎合することではありません。「柔軟に」生きようとすることで自分を見失ってはいけません。卒業生の皆さん、羽生高校で培った「友愛の優しさ」と「自立の強さ」を持って時代を生き抜いてください。

 保護者の皆様、お子様の御卒業、誠におめでとうございます。心からお祝いを申し上げます。本日の卒業を期に、お子様が新しい社会で空高く飛翔されますことを御祈念申し上げます。また、今日まで、本校に対して心温まる御支援御協力をいただきましたことを深く感謝申し上げます。
 最後に、生徒会誌に掲載しました数年後の卒業生の皆さんに宛てた手紙を読み、式辞の結びといたします。

 

 平成29年3月13日

                  埼玉県立羽生高等学校長 田島 昭彦  

                              (一部改)





「拝啓」 ~卒業〇〇年後の皆さんへ

「拝啓」 

~卒業○○年後の皆さんへ

 

 拝啓

 お元気ですか。卒業から何年経ったでしょうか。今はどんな生活を送っていますか。

 仕事に就いた人、順調ですか。最初はわからないことばかりだったでしょう。今までとは全く違う勉強が必要だったのではないですか。同世代の集まりだった学校とは違う環境の中で、戸惑うことも多いでしょう。いろいろなことを、周りの人達の支え、そして何より自分自身の努力で切り拓いたのだと思います。

 まだ、大学や専門学校で学んでいる人もいるでしょう。専門的に随分難しくなっているでしょう。先生方も、もう皆さんの質問に答えることはできません。自分の可能性を信じ、将来のためにたくさんのことを吸収してください。

 仕事に就いている人も、大学等で勉強している人も、対象こそ違え、人の一生は「学ぶ」ことの連続です。「学ぶ」ことは常に私達の周りにあり、人は「学び」の中で成長し、未来を拓いていきます。

皆さんは、高校時代のことを想い出しますか。文化祭では、生徒会を中心に、皆さんの力が一つとなりました。昼間部では、工夫を凝らした模擬店や展示等にクラスの力の結集を感じました。夜間部の花飾りのモザイク壁画は、文化祭の雰囲気を創るうえで最高の演出になりました。

駅伝大会では、アンカーがゴールしたときに、仲間が駆け寄り健闘をたたえ合っている姿が感動的でした。遠足や修学旅行も忘れられない思い出でしょうね。部活動では5つの部が全国大会に出場しました。

 あの時、羽生高校は皆さんの「高校」でした。そして、早春のあの日、皆さんは羽生高校を巣立ち、新しい世界へと飛び立ったのです。もし、高校時代が懐かしくなったら、羽生高校を想い出してください。でも、皆さんは常に未来を見つめなければなりません。これから先は、学ぶ心と机のあるところ、それが皆さんの高校です。御多幸を祈念します。

                                                              敬具

              

                           『 翔 』 第26号より


「親」

「親」

 

 卒業生の皆さん、御卒業おめでとうございます。保護者の皆様、お子様の御卒業に際し、心よりお祝い申し上げます。在学中は、御心配もおありだったかもしれませんが、いよいよ巣立ちの日を迎えたお子様の姿には感無量かと拝察いたします。

 少し前になりますが、ある保護者の方とお話をする機会がありました。お子様の進路への揺れる思いに、居ても立ってもいられない気持ちを率直に語っておられました。

 子供の意思を尊重してやりたい、でも親の気持ちも伝えたい。背中を押してやりたい、でも押し過ぎてはいけない。子供が悩んでいるように、親も子供に悟られないように葛藤しています。子供の前では「格好いい」親でありたいのです。

 語源とは別な話ですが、漢字の「親」という文字は、「木」の上に「立」って「見」ると書きます。上からでは、下にいる者を無理矢理に木に登らせることはできません。登ろうという意思を待ち、登り始めた時に初めて手を差し伸べることができる。

 飛び立つ子供を見送る親の思いには、大きな喜びもある反面、切なさも同居するものです。

 

                          『まがたま』 第76号より

「心に残したい話」


「心に残したい話」

 

 今日は、新聞やウェブ上に掲載された埼玉県の高校生のエピソードを紹介します。

 

 自転車で通学している湯本さんは昨年12月21日夕方、鴻巣市屈巣の県道を通りがかった際、新聞紙や折り込みチラシが半径約3メートルにかけて大量に散乱しているのを目の当たりにした。一度はそのまま通り過ぎたものの、「何もしていない自分に辛くなった」と戻って来た。

当初は古紙を自転車の前かごに積んで自宅に持ち帰ろうとしたが、収まり切れない。約500メートル離れたコンビニエンスストアへ行き、ごみ袋を買って戻り、再び拾い集めた。現場は交通量の激しい通り。湯本さんは青信号になるたびにひたすら拾い続けた。

 午後5時20分ごろ、同署に「女子高生が落とした荷物を一人で拾っている。かわいそうだから助けてほしい」と連絡が入った。署員が駆け付けると、すでにごみ袋3袋分、計10キロの古紙が回収されていた。持ち帰り方法を考えていた矢先に署員が到着。安心した湯本さんの目からは涙が流れた。

 高校ではバスケ部に所属している湯本さん。学校周辺のごみ拾いなど美化活動をしてから朝の練習に取り組んでおり、「学校でもやっているので当たり前と思って拾いました」と振り返った。

 市村知孝署長から感謝状を贈られ、湯本さんは「周りの事をもっと見られる一年にしたいです」とほほ笑んだ。

 

 皆さんは、この話から何を感じますか。この生徒の行為は、しようとしてもなかなか真似できるものではありません。しかし、たとえ同じようにできなくても、他の人の善行を目にしたり、耳にした時、何を思うか、それは大変大切なことです。

いいものはいい、そう正面から感じる心を持ちたい。素直に感動する心でありたい。今日、皆さんに伝えたいのは、まさにこのことです。

心温まる行為や言葉に触れる機会は必ずあります。その時に、素直に温かさを感じてほしい。そして、願わくば、ずっと忘れないでいてほしい。

年頭にあたり、私自身がこの話を忘れないためにも皆さんに紹介しました。

 

 

                      全校集会 校長講話より抜粋

                     (記事:埼玉新聞H29.1.6より)

「振り返る」


「振り返る」

 

 まもなく平成28年も終わります。テレビやウェブ上では、今年一年を振り返る企画が始まっています。羽生高校の平成28年を振り返ってみますと、軽音楽部、陸上部、テニス部、柔道部、剣道部の全国大会出場や、文化祭、駅伝大会での皆さんの頑張り等、大変有意義な年であったと思います。

 この「振り返る」という行為は、時代や世相だけでなく、一人ひとりが立ち止まって自分自身について行うことが大切です。どうしてか。

 『論語』の中に、「吾日に吾が身を三省す」という一節があります。三省堂という出版社の由来となった言葉ですが、「私は毎日、何度も何度も自分を省みて、誤りに気付いた時にはこれを改めている」という意味です。これは、言うまでもなく重要ですが、実は「振り返る」理由はこれだけではありません。今日は、別の理由を考えてみます。

 「振り返る」最初の理由は、「忘れないため」です。

 うまくいかなかったこと、諦めたこと、途中で終わりにしてしまったこと、これからもう一度試みることを「忘れないため」に「振り返り」ます。

 二つ目の理由は、「確かめるため」です。

 頑張れたこと、うまくいったこと、新しい友達ができたこと、一緒に笑う仲間がいること、支えてくれる人がいること、一人ではないことを確かめるために「振り返り」ます。

 三つ目の理由は、「自分を認め、褒めるため」です。

 先ばかり見つめていると、心が重くなります。自分が成長していないと感じたり、これから何をしてよいかわからず、先を見ることが容易でないときも、立ち止まって後ろを振り返ると、ここまで頑張ってきた自分が見えるものです。

 ここで、もう一つ。「振り返る」上で大切なのは「ゆっくり振り返る」ということです。そうすることで、出来事と一緒に「気持ち」が甦ってきます。うまくいかなくても頑張ろうとしていた気持ち。どきどきしていたこと。辛かったけど前を向こうとした決意。嫌になってしまった気持ちさえ、皆さんのこれからの糧となります。

 新しい一年を迎える前に、一人ひとり目を閉じて、この一年間を振り返ってみてください。何ができましたか。何ができませんでしたか。頑張れたことは何ですか。頑張れなかったことは何ですか。自分自身を振り返り、自分自身を褒めてあげましょう。それが、先に進む力にもなります。

 

                      全校集会 校長講話より抜粋


「今を大切に」

「今を大切に」

 

 今日は、「今を大切にする」ことについて話をします。良く耳にする言葉ですが、今回の話は、「今が皆さんの将来の基礎を築く時だからしっかり頑張りなさい」とか、「将来に備えて準備しなさい」という類いの話ではありません。もちろん、それも大事なことですが・・・。皆さんに大切にしてほしいと考える「今」とは、もっともっと目の前の日常です。

 

 高校は人生の通過点に過ぎません。そして、私達は人生の通過点を2度と訪れることができません。今年の高校生活は、人生でもう2度と味わうことができないのです。今しかできないことは、もう2度とできないことなのです。しかし、ここで「思い」、ここで「行動した」ことは、皆さんの心の中にずっと生きていくかもしれません。

 

 眠い目を擦りながら、なんとか頑張って授業を聴いている。クラスメイトと一緒に文化祭の準備に走り回る。重い荷物を持って登校する。先生に進路の相談をする。部活動で汗を流す。友達の他愛もない話に笑い転げる。

 何気ない高校生活の日常を、しかし「今」しか味わうことのできない生活を一つひとつ大切にして、向き合っていく。決して背伸びすることはなく、周りにいる人達と高校生活を享受していく。「今を大切にして」ほしいとはそういうことです。

 

 先を急ぐ必要はありません。人生にはその時々に「旬」なことがあります。皆さんにとって、今は「高校生活」が「旬」なのです。学校の中で「笑い」、「汗を流し」、「涙を流し」ましょう。今を大切にして生きること。それが、今後の人生を豊かにしていくでしょう。

 

                        前期終業式 校長講話より抜粋


「文化祭を創る」

「文化祭を創る」

いよいよ第48回「勾玉祭」が始まります。今まで、勾玉祭実行委員会を中心にテーマを決定し、各団体が企画や運営に知恵を絞り、工夫や調整を重ねてきました。一つひとつ積み上がり、形となっていく様子には、まさに「創る」という言葉がぴったりです。

さて、文化祭の「楽しさ」とは何でしょう。お客として参加すること。もちろんそれも「楽しさ」です。

でも、もう一つあります。それは「創る」楽しさです。最初から最後まで、自分が主体となって、考え、行動し、創り上げる楽しさ。「文化祭」を待ち焦がれる生徒達が共通して感じているものの一つに、この「創る」楽しさがあります。そして「創る」中に、充実感や感動があり、苦しさや挫折感も同居します。

勾玉祭においでの皆様、本校の「文化祭」を満喫してください。同時に、開催する側の「楽しさ」という観点からも見ていただけると違った勾玉祭が見られるかもしれません。